11月27日(火) 「佐藤友昭」

1988年 春



今から24年前の1988年、俺が丁度20歳の頃、愛知県豊橋にて

HATENKOというバンドが、パルコライブアワードというコンテストで全国準優勝したらしいぞぉ!!”

という話が盛り上がった。

がしかし、豊橋のバンドシーンの殆どがHATENKOを知らなかった。

何故ならHATENKO豊橋にある、愛知大学のフォークソング研究会のバンドで、

豊橋のライブハウスシーンにはあまり関わっていなかったから。

がしかし、一躍有名バンド。

その硬派なロックバンドHATENKO”のライブには人が集まり、

確かに、大学生とは思えぬ只ならぬオーラを発していた。



1988年 夏

しばらくし、HATENKOのドラムとベースが抜けるという噂がたった。

大学4年生のバンド、そこは就職を選択するのも普通。


88年の夏、面識のないHATENKOのメンバーから「会いたい」との電話がかかってきた。

それはメンバーにならないか?という誘いだった。

条件は共にプロを目指す事。

時に俺は、いくつかのバンドでドラムを叩くも、東京デザイナー学院名古屋校2年、

翌年の春に、名古屋のデザイン事務所に就職が内定していた。

返事は、その2日後から行く事になっていた旅行から帰って来てから、という事にした。



交通事故

その、車で東京まで行った旅行の帰り道、

なんとなく寄った浜松の海の近くで、

自分の車が廃車になる程の、車同士の事故をした。

怪我人は出なかったものの同乗者も居た。

大きな借金が出来た。


その1週間後、

俺はHATANKOのギター宮脇さんの紹介で、共に、炎天下の元、バーナーで鉄を切り、運ぶという、

かなりキツい現場仕事を初めていた。

夜はHATENKOのリハーサルや飲みだった。

就職内定はお断りした。



1988年 秋

日々HATENKO漬け、

今では信じられないが、

パルコライブアワード準優勝の賞として、賞金があったにも関わらず、

更に、大阪、名古屋、東京、札幌のツアーもした。

時はバブルだった。


事故から始まったのに、

夢と希望しかない、バカみたいに楽しい日々であった。



1989年 春 

準優勝するも、すぐにデビュー出来る程甘くはなかったので、

皆で上京する準備として、まずは各々の実家を離れ、名古屋に住む事にした。


俺は、2歳年上のヴォーカル佐藤友昭さんと共に、

名古屋の”いりなか”という町で、鈴木荘という家賃1万円の共同アパートに住み、

共に佐川急便で仕分けのバイトをした。

佐藤さんとは毎日一緒だった。



佐藤友昭 23歳

彼からは多くの影響を受けた。

「頭脳警察(バンド名)がいいんだよ」 という話がキッカケで政治に興味を持つようなった。

「中島みゆきが良くてさ」 という話で、バンドブームの最中、ポップス、そして歌詞に興味を持つようになった。

「部屋が片づいてないと物が考えられないんだよね」 という言葉から、環境を整えるようになった。

「文字中毒でさ」 という言葉から、読書するようになった。

「衝撃」 という口癖が移った。


今思えば、わかったような事を言わせてもらえば、

全てを一度受け入れ、試し、一時の感情で判断せず、自分のフィルターを通しつつ、客観的判断を出す。

そんな、大きな姿勢にも影響されていた。


親や先生を尊敬している、というのは、子供時代には、なかなか実感がなく、後になって思うもの、

そんな中、佐藤さんは、人生で一番最初に素直に尊敬した人かもしれない。


そして、佐藤さんと俺の間には、ここでは書けないが、大袈裟に、テレビドラマのフレーズみたいに言うならば(笑)

今日まで続いている、運命のイタズラ的な事も起こっている。



1990年 春 解散

キティーオーディション中部地区準優勝。

名古屋クラブクワトロ、マンスリーライブ

がしかし、

お互い、あまりに濃い日々を送り過ぎた結果だったか、

HATENKOは話し合いの末、解散。

それぞれが、それぞれの道を進んだ。

俺にとっては濃厚かつ衝撃の1年8ヶ月であった。



その後

俺は、直後の5月に単身上京、現在に至る。

ギター宮脇さん、後に上京し、現在も一線で活躍するギタリスト。

ベースNAL、名古屋と原宿に店舗を構えるモダンパイレーツという人気ブランドオーナー。

そして、一番長い時を過ごした佐藤さんだけが、一番疎遠になっていた。

その後に会ったのは2度のみ、最後に会ったのが10年以上前。



解散より22年 2012年10月27日 09:27

まずは友人より連絡があり、メールをした。

そして佐藤さんから返信が来た。

(※改行含め原文)


牟田へ

メールありがとう。

内容、興味深く読ませて、
もらったと共に、
読み進めるうちに、
牟田の人間的な成長を
すごく感じて、
非常に心地が良かったです。

また、自分が過分に持ち上げられて
いるところが多々あって、
すごく恥ずかしかったよ…

とにかくありがとうね。

俺の状態については、
森からは、どの程度、
聞いてくれてるのかなぁ?
昨年の春に手術して、
その後、余命半年(…も無い)と
言われて、すべての西洋医学
(現代医学)的な延命治療を拒否。
なんだかんだで、
1年半近くが経過しました。
(生きてんだよなぁ〜)

しばらくは仕事続けてたんだけど、
今年の春に再び入院、
一旦、退院して、
自宅療養に切り替えたんだけど、
先週、再び入院という形に
なりました。

今回は、かなり色々な症状が
一気に出てきているので、
いよいよかなぁ
と思っています。

でも、まあ、これまでの
ことがあるから、
一ヶ月半ぐらいは、
持つと思ってんだけどね。

とにかく、顔が見たいし、
会いたいです。
あんまし、自由がきかないので、
ベッドサイドでの対応、
また、常にバタバタしてるから、
落ち着かないし、短い対応に
なっちゃって申し訳ないけどね。

また、連絡下さい。
あっ!それと、
こういう時って、みんな、
手ぶらでは…とか気にするん
だけど、そうだなぁ…
コンビニで売ってる果汁の
ジュースとか、ゼリーとか、
プリンとか希望(笑)。
一個とか二個とかで、
充分だけどね。

やはり、いつまでたっても、
煩悩は消えないねぇ…(笑)

それでは、またね。

昨日は宮脇が来てくれましたよ。
また、今日は森が
来てくれるみたいです。

佐藤友昭



彼は末期ガンであった。

この時期まで、家族と上司など一部の人以外、誰にも伝えてなかったんだとか。

この日より毎日メールのやりとりをするようになり、今月5日、ようやくお見舞いに行けた。



11月5日 11:00

お見舞いに行った。

体重は40キロ台だっただろうか?

太かった声は、か細くなっていたが、確かに懐かしの佐藤さんであった。


死を受け入れているという彼と、短い時間ではあったが、濃厚な話をした。

色々な話の一部を、

ちなみに、どの話も俺から聞いたと言うよりは、佐藤さんから自然に出て来た話題。


死について

「今までは治そうと頑張ってたけど、

なんで俺が?と思ってたけど、

今はもう、抗おうとは思っとらんじゃんね、

眠って起きないだけなら楽だし、流れを受け入れようと思って、

ただ過程が怖ぇ~な」


癌は物凄く痛いんだそうです。


原発について

「色々読んでみたんだけど、どうしても、わからんじゃんね~」

彼の枕元には、分厚い、小林よしのり『脱原発論』の本があった。

反対というのは簡単だが、わからん、という言葉が、むしろ熟考を感じる、


食事について

「この1年半は自然食を食べてたけど、今はなんでも食べとるよ、

ホタルイカの沖漬けが食べてぇ~な つぶ貝が食べてぇ~な 居酒屋行きてぇ~」


教育について

中2の男の子、小6の女の子の2人を幼稚園の頃から空手に通わせており、また自分も通い、

息子は黒帯にて、北海道で招待選手として、極真宗家の試合に参加する程に、

空手を選んだ理由を尋ねると

「例えば脱いだ靴を揃えるだとかさぁ、普通の礼儀を身につけて欲しかったからさぁ、

ところがそれ以上の事を学んでくれてね、嬉しいよ」


俺はその翌日から、まず自分が靴を揃える事から始め(笑)

「娘に一緒に空手教室にいこうか!」と言ったら「やだぁ!」と言われました(笑)



牟田について

「ホームページ見せてもらったけど、自分なりのこだわりの下に生きてんな」

「お前は人と人とを繋げる力を持っとる、そういう役目を持っとる」

「お前には、やっぱり”何か”があるな、一番最初に会った時から思っとった」

と、嬉しい言葉をもらった。


バンド、ヴォーカル、音楽の話

俺が「あの頃HATANKO
で目指していた事を少々経験したんだけど、、、

ヴォーカリストは、みんな、その地位の代償に、我が身を削ってて、、当たり前だけど、楽しいだけじゃないね」と言うと

「それでも続けられる奴が、本当のタフなんだろうな」と。


奥さんについて

「血は繋がっていないけど、なんでもスピリチャルにするのは好きではないんだけど、

○○○(奥さんの名前)とはツインソウルだと思うんだよね」



日本人の生き方

「もう、これまでと同じではダメだと思う、根底から価値観を変えていかないと」


自分の生き方・核

「バリバリのビジネスマンだったよ、

ビジネス本を読みまくって、上司に色んな提案してさ、売れる方法考えて、

でも、俺はいったい”何”をしようとしていたんだろう?

正月の家族旅行がホント幸せでさ」


そして自分の胸を叩きながら、

自分の核は何か?

核となる考え方、ルール、生き方、仕事、そして、核となる帰る場所はどこか?だよな」


俗に、贅沢に、周りに振り回されず、自分なりの核をしっかり持っているか?

それが大事だ、という事を言っていました。



他にも、

お金や時間などの価値観の話、

政治の話、

311の地震の話、

イメージで治療する話、

昔話、

後悔の話、

家族愛の話、

ここには書けない話、

様々な話を、


自分が病気になった理由も、、、分析していました。。。


本当は、ここには書けない内容が、一番、佐藤さんの大きさをを物語っているのですが、

心に閉まっておきます。



プリン

食べたいと言っていたプリンを持っていた、常温保存出来る、8個入り箱詰めプリン。

蓋を開けると、スプーンが入っていなかった。

「現代の日本のサービスとして、スプーンが入ってないなんて考えられないなぁ~ ダメやろぉ」

なんて、突然のリアルな意見には、当時の佐藤さんを思い出した(笑)


そして

「美味しい物食べると、生きたくなっちゃうな」

「こんなに話せるんだから、俺、まだまだ大丈夫なんじゃないか?」と。



帰り際

「○○○(奥さん)も、毅然としてるけど、大変やと思う、この後、色々手伝ってあげてな、、、」

・・・

「泣かないつもりだったんだけどな、、、ダメやった」 



11月5日 19:44

PCに、長いメールが届いていた。

かなり褒められているので、自慢になってしまうので、、、その点については気が引けるのですが、

この状況で、この内容とは凄いと思い、

佐藤さんの人柄がよくわかると思い、あえて原文のまま載せます。


牟田へ

今日は、わざわざ、
来てくれて本当にありがとう。

顔を見れて、本当に良かったです。

あっ!話しは変わるけど、
今、iPhoneでビートルズの
レットイットビーのアルバム
(ホワイトアルバム?)を
聴いてます。流れてるのは、
アクロスザユニバース。

牟田と別れてから、昼食を取り、
その後は、やはり、ここの
ところといつも同じパターン、
18時ぐらいまで、大変でした。
今は、だいぶ、復活してきました。

しかし…こんな長文の
メール打ってる俺って
大丈夫なんじゃねえか?
とか思っちゃうよなぁ…
まぁ、今は麻薬がバリバリに
効いてんだけどね…

曲がレットイットビーに
変わりました。
相変わらずのすごい曲だなぁ。

しかし、今日、牟田と
久し振りにあって思ったんだけど、
牟田って、本当に気持ちの
良い奴だな。たぶん、かなりの
奴らが、牟田のこと、
そう思ってると思うよ。

もう、残り少ない人生、
嘘やおべんちゃらなんか、
全く言う必要がない
俺が言ってるんだから、
たぶん、間違いないと思うぞ。

牟田に取っては、
自然体なんだろうから、
そのままで良いんだろうけど、
大事にして下さい。

何かに迷ったりしたら、とにかく、
徹底的に自分を客観視して、
自分の立ち位置を常に確認する
ことができる…そんな姿勢って
大事なんだろうな。
自然体でやってんだよなぁ…

今日は俺も、調子に乗って、
かなりオーバートークだった
気がします。

愛のこととか、金のこととか、
仕事のこととかね…

俺自身、自分のなかで、
昔、感じてたこと、
考えてたこと、
自分が人に対して発言していた
ことなんかについて、
色々矛盾が生じている部分が
あるけど、
まぁ、その心の動きや変遷を
伝えるには時間が足りない
ということで、残念です。

とにかく愛。
そして、そこに、○○○さん、※奥さんの名前
家族、ともだち、金…
なのかねぇ…まぁ、順番つけられる
ものじゃないけどね。

それでは、またな。
今日は、本当にありがとう。

さすがに、文章校正する
パワーとかはないなぁ…
乱文及び支離滅裂ですまぬ。

ありがとう。

佐藤友昭



嬉しかったです。



11月8日 09:25

その後も毎日メールを交わし、多くの勇気をもらい、ある日には、こんな普通のメールも


牟田へ

この曲、俺、本当に大好きでさぁ…
一度、聞いてみてよ。

矢野絢子_ナイルの一滴_てろてろ
http://youtu.be/nFv_jX4uA_A

佐藤友昭


牟田へ

これも送っちゃおかなぁ…

「死んだ男の残したものは」 中ムラサトコ&矢野絢子
http://youtu.be/kCdL80ALFXQ

佐藤友昭




日々

文面がしっかりしていたため、

彼が病気である事を忘れ、

再会を嬉しく思い、

価値観がこごちよく、

気が付けば、日々彼から来るメールが楽しみとなっていた。



11月11日のメール

(略)
明日、楽しみにしています。

さて、たぶん、後、1時間半もすれば、
病気とのファイトタイムが、
スタート!今日もやるぜぇ~

佐藤友昭



11月12日 09:30 横浜

東北ツアーから帰ってすぐ、再びお見舞いに、

その前に、前回、佐藤さんが食べたいと言っていた、沖漬け、つぶ貝を受け取りに。



工藤弘澄 36歳

作ってくれたのは、ストリーツビーツのファンである、

横浜の ”創業明治22年 割烹 いりかせ” の店主、工藤弘澄くん。


何日も献立を練って、素材を揃えて作ってくれたという、普段はやっていないというお弁当スタイル。

しかも2つ、それと、刺身、沖漬け、ホヤ、などなど、

「二人で居酒屋に行ったように楽しんで欲しくて、牟田さんの分も作りました!」と。

  

封筒には1つ分の謝礼しか用意していなかったので焦ったが、彼は、

「いいえ受け取れません、ダメです、ダメです」

と、どうにも謝礼を受け取ってくれなかった。

内容は話したが、彼は佐藤さんを知らない、にも関わらずである、

浅田次郎の小説に登場しそうな位に粋な男である。

ありがとう。



11月12日 11:00

病室に行くと、佐藤さんは少し朦朧としていた、

5日に来た時とは、すでに別人になっていた、

もはや弁当は違うかと思ったが、

「沖漬けとつぶ貝のお弁当持って来たけど食べる?」と言うと、

突然意識がハッキリしたようで、

「じゃあ、お前はまず談話室の席を確保しといてくれ、俺は準備して向かうから」と。


前日”最近悪化してきてて、来てもらっても話せないかもしれない”

というメールが来たとは思えぬ、昔懐かしい、仕切り具合だった。


そして、俺が持って行った、HATENKOの昔の写真を見ながら、笑いながら、

 '89.7.13

「牟田、本当にありがとう、いただきます」

「うまっ!うまいなぁ~ いい素材使っとるなぁ~

これが、あんこうかぁ、これがハタハタ、これホヤやなぁ

お前、ホヤ、ダメだったやろぉ、札幌でホヤ食べたよな(笑)
(※HATANKOで札幌に行った時、お店の人にサービスでホヤを出され、みんなで涙目で食べた)

ウニは大丈夫か?

そうそう、つぶ貝が食べたかったんやぁ、美味しいなぁ~

これはなんだ?これが沖漬け?

俺が食べたかったのは、、、ホタルイカの沖漬け、だったんだけどなぁ~

まぁいいかぁ、

というか、これ、高級弁当だぞぉ!!どうしたんや」と

1時間あまり、楽しい時を過ごした。


勿論少量食べただけで、俺がほぼ2人分食べた。


気付くと佐藤さんは、眠りかかっていた、

無理させてしまったのかもしれない、

慌てて帰る事にした、

佐藤さんのスケジュールもあり、俺も日々ツアーをしている関係で

次は多分来週21日に行くねと、別れた。



11月13日

17日間、毎日来ていたメールが途絶えた。

毎日、毎時間、メールをチェックしていたが、メールは来なかった。



11月18日 07:45 旅立ち

俺が神戸から戻る頃、彼は息を引き取った。


音楽仲間は皆知らなかったのですが、

佐藤さんが近年子供達と共に通っていたという、松栄塾師範日記より、

その文面があまりに美しいので、失礼ながら、ほんの一部を転送させてもらいます。

(略)
宇野先生が渡された黒帯を確かに両手で受け取り
「ありがとうございました 押忍」と小さいながらもはっきりと答えられたのが最後の会話となり、
その四時間後、七時四十五分家族の方に見守られながら霊山へと旅立たれました。
「松栄塾の人たちは強いとか弱いとか偉いとか貧しいとか別け隔てなく付き合える最高の友です」
笑顔で話されたおの一言が忘れられません。
(略)
松栄塾を家族のように思ってくれて、ありがとうございました  押忍

全文はコチラ→ 松栄塾師範日記



11月21日 19:00

お見舞いに行くはずだったこの日、お通夜に行く事となった。


時を経てようやく会えたと思い、

20歳の頃のように、メールとは言え、毎日言葉を交わしたと思ったら

たった17日間で、

俺の感覚としては、突然のお別れ。


家族へ伝えたい事も、聞きたい事も沢山あったのですが、悲しみというよりは、驚きで言葉出ず。

本人、家族にとっては、長い1年半だったと思いますが、

俺にとっては、あまりに突然、

実感が沸かず、悲しいのかもわからず、ただただ呆気にとられた感じなのでした。

結局、今度聞こうと思っていた、この22年間の佐藤さん暮らしなどは、分からず終い。



21:00 偲ぶ

お通夜の帰り、HATENKOのメンバー、名古屋の友人と飲んだ。

ギターの宮脇さん曰く

「佐藤とは長い間会ってなかったけど、最期の時は、こうして俺らを呼んでくれるんだなぁ

人と人との繋がりは、共に過ごした時間の長さ、ってわけじゃないよな。」

確かに。


たった1年8ヶ月しか共に過ごしていないHATENKOのメンバー。

日頃会うわけではないが、確実に繋がりを感じる。

そんな事にも気づかせてくれた佐藤さんであった。



着地せず

とはいえ、俺にとってはあまりに突然。

まだまだ聞きたい事もいっぱいあったのに、

取り急ぎ、みんな忙しい年末、偲ぶ会はいずれ、という事で、

なんだか、気持ちが着地せず。。。



着地

がしかし、

書くか悩んだこの日記を書いた事により、自分の中で気持ちが着地して来ました。

これもまた、弔いかとも、勝手に思っております。


そして、改めて、佐藤友昭さんが自分にとって大きい存在だった事に気づき、

また、再会により、新たに、大きな素晴らしい影響を受けられた事にも気づきました。



佐藤さん

 1989年 当時23歳

大きな器を持った、佐藤友昭さん お疲れ様でした

心から尊敬と感謝を捧げ、御冥福をお祈り申し上げます。

大きな価値観を教えてくれてありがとうございました。


牟田 昌広



みなさま

かなりの長文、自分への日記を、ここまで読んでくれて、ありがとうございました。


説明

当初、佐藤さんとのメールは、個人的なものなので、現在はよりは少なめに掲載していましたが、
佐藤さんを知る複数の方から”佐藤さんの事が知れてよかった”とのメールを頂いたため、
適切であるかは、わかりませんが、
この文が役立ち、そして、これも追悼の意かと、佐藤さんからの原文を増やしました。



お知らせ


注・ATENKOは~’90 以後東京で活動していた破天荒とは別のバンドです。
東京での破天荒のヴォーカルと、佐藤さんを混同した方がいたための説明です。

現在、当時のHATENKOの音を入手中でして、データ化出来ましたら、ここに添付しようと思っております。



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