武道館

 

武道館と聞いて思いつくものは、音楽に携わっているいじょう、やはり九段下の日本武道館であろう。

そして"いつかは武道館でコンサートをする"という事は、昔程ではなくなったと思うが、やはりミュージシャンを志した者の多くの目標だろう。

しかしながらこの目標を達成出来るのはほんのごく一部であり、プロになれたとしても、ほとんどの人が武道館に到達する前に終わってしまうものである。

東大合格よりもはるかに難しい。

そして僕はまだ武道館でコンサートをした事がない。

「俺もいつかは武道館のステージに立ってやる!!」
と熱い想いを胸に秘め・・・と書きたいところだが、
実は僕は武道館に対するあこがれはあまりない。

余談だが、武道館いや、武道館に限らず大きな会場の収容人数は実にいい加減である。

これは僕がこの業界にいるからと言って裏話をしているわけではない。

客として気づいた事なのだが、同じ武道館にも関わらずステージがすごく遠い時とやけに近い時がある。

なるほどステージをどこに作るかによって、その収容人数は倍近く変わるのである。

「ステージプラン変更につき追加チケット・・・・・」と言うのも怪しい。

世間にはいろんなトリックが溢れている。

余談が過ぎた。友達のイベンターに怒られそうなのでやめる。

そう僕は武道館に対して、いや武道館に限らず
「大きな会場でコンサートをしたい!」と言うあこがれや目標があまりない。

かと言って、「ライブはやっぱり小さい会場に限るぜ」と言うわけでもない。

ましてや「日本の音楽シーンはさぁ〜・・・やっぱ洋楽でしょ」と自分の国籍を棚に置いといてしゃべる評論家でもない。

僕にとっての目標、こだわりは場所ではない。

僕にとっての目標は「プロ」である。

僕はこの目標を達成するために、はるばる名古屋から単身東京にやって来た。

なにも知らない22歳の僕はとにかくプロになる事だけを考えていた。

一度プロになれば、ずっとそのままだと思っていたからだ。

だからこそプロに近づくためになるのであれば、ある意味なんでもやった。

全く聴いた事のない音楽性のバンドなども数多くやった。

しゃべった事もない、一度もスタジオに入った事も無い人達と知らぬ間に表向きメンバーになってテレビに出た事も何度もあった。

それを観て喜ぶ親族に少々心が痛んだ。

自分の好きな音楽など、まるで無視した。

好きな音楽というよりもプロという事にこだわった。

今まで自分がプロになるために、自分に向いてない音楽でもやってきた事は悪い事ではなかったと思う。

それによって得たものは大きい。

しかしながら、自分自身を見失う危険性があるというのも事実である。

こうして、上京後3年、音楽で収入を得はじめ、その2年後27歳から今日までは他の職をしなくともドラムだけでそれなりに普通の生活を送れている。

いわゆるプロである。

そんな僕がプロの現場を見てきて思う事は、

プロとは実に曖昧な言葉である。

デビューしているにも関わらずほとんど収入のない人がいる。

デビュー予定にも関わらず結構な収入がある人がいる。

かつてデビューしていた頃よりも収入がある人がいる。

バンドが解散してしまったのに、ずっと給料をもらい続けている人がいる。

世間的には全く知られてはいないが、実はすごく儲けているミュージシャンがいる。

さぁこの中でどれがプロでしょう?

昔プロミュージシャンに「どうしたらプロになれますかねぇ」と聴いた事がある。

すると彼はこう言った「自分はプロだと言えばいい」

なにを言ってるんだと思ったが、実はそのとうりである。

現に僕自身、ドラムで収入を得だしてから今日までの間、事務所に所属していた時期はわずかであり、そのほとんどの時期、そして今日に至っても、自分はプロだと言い張る事により、収入を得ている。

プロとは実に曖昧な言葉である。

近年はある意味、プロとして目標を達成していたのかもしれない。

周りの人も僕に対してそう評価していた。

しかし実は僕自身は、ここが目標だったのだろうか?昔からあこがれていた場所はここだったのだろうか?などと大きく悩み、目標を失い、自分自身を見失いかけていたような気がする。

自分に納得がいったらあけようと思っていた、名古屋の友人達が寄せ書きをしてくれたバーボンはまだそのままである。

目標がないまま何かを続けるというのは実に難しい。

今年になって武道館ならぬ武道場へ通っていた。

「パンクラス」という総合格闘技の道場だ。

なぜ通ったかというと、たまたまパンクラスの選手と友達という事もあり、また昨年までのバンドを脱退し、時間を持て余していた、というのが主な理由である。

格闘技というのは想像以上に過酷であった。

痛いというのは、まだ我慢出来るのだが(とは言っても行くたびに体中がアザだらけになってしまう程で、本当に痛い)何よりも体力的に過酷である。

たった一分程度のスパーリングを休憩しながらとはいえ十回、いや五回も続けると本気で息があがってしまう。

時には脳への酸素不足で一時的な頭痛を引き起こす。

誰もが記憶にあるだろう学生時代のマラソン大会よりもきつい。

最初のうちはいろんな型を覚えたいという、ちょっとした目標があった事もあり、また時間もあったため、この苦痛に絶えながらもまめに通っていた。

しかし徐々に行かなくなってしまった。

理由その一 時間が合わない。
横浜の関内まで、夜の六時か八時に行かなくてはならなく、春の頃は暇だったが、今となっては最も忙しい時間帯である。

理由その二 すぐに打撲、捻挫等のケガをしてしまう。
ライブ前は本職に影響が出るので危なくて行けない。

しかし何より行かなくなった理由は
"特にこれといった目標が無い"
という事である。

大会に出ようとする程本気ではなかった僕にとっては、成果を発揮する場所が特に無かったのだ。

空手の帯びの色に階級があるのは、辛くてもやめないための、解りやすい目標なんであろう。

やはり目標やそこにいる意味、自分の今後のビジョンをしっかりと持てる場所に居ないと、何事にも張り合いが出ないものだ。

先日とあるパンク界では有名なバンドから仕事の依頼が来た。

日程的にもちょうど良かった。

以前の僕なら、プロという言葉のみに惹かれ、そのジャンルが自分にとってどうであれ、飛びついていたと思う。

しかし断った。

日程的には出来るのにも関わらず、仕事を断ったのは、初めての経験である。

そのバンドがどうこうと言う問題ではなく、今後の自分のスタイルやビジョンを作っていく上では違うと思ったからだ。

今、僕はプロと言う曖昧な目標ではなく、自分のプレイヤーとしてのスタイルの確立をしなければいけない時期にたっていると思う。

 

ゲストコラム Chanmer茶帯2級 夢は自分の関わったアーティストが武道館でライブをする事と語る、某アイドル3人組のマネージャー 、テーマが武道館ということで2度目の登場。

武道館・・・僕には重たい言葉。単純な動機で書くこと
はできない。
コラムというより私情日記になりかねない。
その事をご理解の上、しばしお付き合いくだい。

思い起こせば11年前、中学校の卒業式。みんなは教室で
高校の話題やら、今後の連絡先やら、記念写真を
撮っている中、僕はマジックを持ってトイレに行った。

落書きだらけのドアの一番目立つ所に
「武道館に行ってやる」 と何回も重ね書きをし極太にしてやった。
未だに、あの時のサンポールの刺激臭は覚えている。

何故、武道館?と思う方もいると思いますが、話すと長くなる
ので省略します。兎に角、東京ドームではなく日比谷野音
でもなくカーネギーホールでもなかった。

実に青臭い。若気の何とかいう奴で、今でも思い出すと
笑える。
しかし、思えばこれが、今の僕の始まりだったのかも
しれない。

高校に入るとカバンも持たずに、ギターを抱え自転車に
乗って登校する。まるでキカイダーゼロワンのような男と
出会った。

後に彼とは、某レコードメーカーと契約し、僕がマネージャー
をすることになる。

高校時代はその彼とメンバーをかき集めバンドに明け暮れた。
本当はドラムに凄く憧れていた僕はゴム製トレーニング
ドラムセットを仕入れ、狭い部屋でバコバコやっていた。

当然のように母親に怒られ、リズム感の欠落も生じて
ドラムを断念し、ボーカルになった。

今でも思い出すと、顔が赤くなるのが初ライブである。当時
は格好良かったのかもしれないが、今では考えられない
紫色のスーツで出た。いや〜こっぱずかしい。

自分で言うのも変だが、高校生バンドとしては動員もまずまず
で、チケットソールドアウトもめずらしくなかった。
まさに井の中の蛙である(小林一茶 談)

高校を卒業すると同時に、18歳の少年達には新たな人生の
選択肢が出てくる。大学に行くやつ、親の仕事を継ぐやつ、
音楽に専念するやつ。

このバンドも同じ問題を突きつけられた。みんなで話し合っていた
時に、ドラムの奴が「おまえらと武道館には行けない」
と泣きながら言った事を凄く覚えている。

彼の家は自動車整備工場を営んでおり、当然親は息子に
手伝ってほしい。彼はその道を選んだ。

あの頃はしょうがないとは思いつつ「根性なし」と言いたかったが
今になると彼の 「あきらめる強さ」 に共感できる。

それからは動員も減り、ライブもしなくなり所詮「高校生バンド」
という事で終わった。僕自身も音楽を一時期、嫌いになり
趣味のサーフィンやら、クラブ通いに逃げて行くようになった。

余談であるが、クラブで売っている音源を部屋で聞いていた時
、うちの母親が「なんか変な宗教に入ったのか?」と
真剣な顔で聞かれた事があった。
確かレゲエの曲が同じリズムでエンドレスに流れていた。

そんなある日、連絡をしてなかった、ギター(キカイダーゼロワン)から
電話があった。ライブを見に来ないか? という誘いだった。
18歳のガキだとは言え、生ぐさい別れ方をしたバンドのメンバー。。。。
あれから、2年が経っていた。

自分のプライドもあった。あいつが活躍していることは知っていた。
音楽雑誌に載っている姿を何回も本屋で見ていた。
今の自分が嫌いにもなった。。。。行きたくなかった。。。。。。
でも。。。会いたかった。。。。。

結局、色々考えた後、「行こう」と決めた。フラフラ遊んでいる自分を
変えてくれそうな気がした。案の定、ライブは裏切らなかった。
極真カラ手のおっさんに殴られた気分。
凄く悔しくて、嬉しくて、何とも言えない気持ちを覚えている。

翌年、ツアーでまた戻ってきた彼らから
「マネージャーになってくれないか?」 と言われた。
「ん!!」言葉を理解するのに苦しんだ。
「自分たちの事を一番理解してくれて、同じ気持ちを持っている
奴としたい。と考えていたら、お前しかいない」

複雑だったが、最高に嬉しかった。ちょうどその頃は収入もよく
男のロマン 「キャデラック」を買おうと汗水たらして貯金もしていたので
すぐに諦め、東京に出てきた。

これで武道館に行けたら青春サクセスストーリーなのだが
人生そんなに甘くない。結局未だ武道館には辿りつけていない。
あいつらの事も理解してやれなかった。。。。と思う。
バンドをやっている人なら、誰もが何かしら経験する事だと思う。
特別でもない。この職業で色々と勉強させてもらった。
物事を客観視できないのにも苦しんだ。
いやな現実にもぶつかった。
手のひらが返る瞬間を見抜くことができた。

だけど「武道館に行ってやる」という気持ちは中学生の
頃から、何も変わっていない。
たとえマネージャーという職業であっても。

牟田さんがコラムで「いつか武道館の楽屋で一緒に弁当
を食べたい」と言ってくれた事が凄く嬉しい。
冗談でも言える距離に来たのだ。と一人テンションを
上げた。

「武道館」・・・やっぱり僕にとってはあまりにもデカイ。
本当は武道館でライブをしてから、こういうのを書きたかった。
もし行けなくても後悔だけはしたくない。
ここまで僕の人生を左右するのなら、とことん付き合ってやろうと
思う。あの玉ねぎ野郎に。

 

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