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平成18年2月9日
自由民主党立党50周年企画
歴代総理・総裁・官房長官リレー講演会

「腹を決めた」総裁選立候補全国遊説2年間で300回

立党50年プロジェクト「歴代総裁・官房長官リレー講演会」の第11回が2月9日、党本部で開かれた。今回の講師は第14代総裁の海部俊樹元総理で、「決断!私はあの時こうした」をテーマに、総裁選への立候補の動き、政治改革の選挙制度改正案の攻防などを「海部流」弁論術で、会場に詰め掛けた300人の聴衆に語りかけた。

青年に夢と希望

 私は29歳で国会議員に初当選し自民党の初代青年学生部長となった。青年に夢と希望を与えるような日本を創らなければならない。政策で勝負しようと決めた。ちょうどそのころ若いケネディ米大統領が大学で途上国を豊かにするための平和部隊の構想を発表する。「これは日本にだってできる」とバングラデシュの村に第一陣を派遣したのが議員として駆け出したときの姿だった。

 昭和35年の我が国の国家予算は1兆5696億円。そんななか、青年海外協力隊をぜひ作りたいと大蔵省に交渉に行ったが、「そんな神様みたいな、夢みたいな青年が日本におるか」と言う。私は「おるぞ」と決断した。

 先日、日本青年海外協力隊発足40周年の記念大会が開かれ参列した。首脳会談ではどこの大統領も青年協力隊に感謝してくれる。私は非常にいい礎石を打ったと今でも秘かに自負している。

 国民の信頼を得るための政治改革をやるのが内閣と自民党総裁の一番の責任だということで時代が追い込んできた。

 そこでお金のかからない選挙制度で政策を論争して政党本位、政策本位の選挙ができるような世の中に変えていかなくてはいけない、とできたのが政治改革推進本部だった。そうこうしているうちだんだんと影の面が強くなってしまって短命内閣が続いた。

 私が総裁候補にあがった理由は、2度文部大臣をやっているから、品行は大丈夫だろうと、まあいろんな評価を受けた。

 当時、今はやりの世代交代、ヤングパワーという言葉が自民党内を支配し始めていた。小沢一郎、小渕恵三、森喜朗君らが私を呼び出して「あんた、腹を決めるときが来るかもしれんぞ」と。私が「冗談はよしてくれ、おれのところには親分がおるから、成仏してもらわないと」と言ったら、安倍晋太郎さんと竹下登さんが「そちらの方はもう我々が料理したから心配せずに安心して、おまえは党のために死んだつもりでやれ」と。そこまで仲間が言ってくれるならと、その気になった。

 組閣では官房長官の人選で迷った。そうしたら誰か知恵者がとんで来て「女性に強い人をというが女が問題を起こす事はない」と言い、女性で官房長官が務まりそうな人がおると言ってくれた。それが森山眞弓参院議員(当時)だった。

 そういうスタートだったが、私は本当に歯を食いしばって一生懸命に、誠心誠意頑張ってきた。

あの時は消費税の話もあって総裁遊説とか全国遊説とか2年間に300回も一生懸命に演説して回って、総選挙では安定多数の275議席を獲得できた。
 
今、消費税を上げるか上げないかで論争があるようだが、「これだけはどうしても要りますから」と分かりやすく素直に話したらどうか。話せば分かってもらえるのが日本国民の皆さんだというのが、私が回を重ねて身に付けた結論だ。

政治改革だが、選挙制度改正法案を作り上げ国会に提案した。審議会では新聞、テレビ会社の幹部も皆委員になってまとめてもらい、この法案はうまくいくと思ったが、どうにもこうにも、ぶつかりあって海部内閣では通らなくなってしまった。

自民党の教科書

総裁立候補の時に「これをやるのだ」と言い、総裁になってからも最重要課題として言ってきたことがだめになったのだから、政治家は言ったことに責任を持つというのも大事な政治改革のはずで、記者会見ではこの法案を次の人が必ず成立させてくれることを強く訴えて辞任した。

政治は教科書を間違えたらいけない。

ドイツのベルリンの壁が崩れたときに私は総理として東ドイツの総理大臣と話した。

「我々東ドイツ国民はあちら(西ドイツ)に負けたとは思っていない。国づくりのための選んだ教科書が間違っていたのだ」と言ったことが今でも印象に残っている。

私は自民党の教科書は間違っていないと思う。その方に向かって皆が力を合わせ、心を合わせて分かりやすくきれいな政治をやっていけば次の100周年記念まで続くだろう。

元内閣総理大臣