修文練武(七) 「馬鹿らしい。ぞうきんがけばかりじゃないか」 あげくは、部員がどんどん減っていく。そんな自然淘汰で、三年生になるころにはずいぶんの減員となり、精鋭ばかりが残る勘定だ。 弁論部員は、年間数回〜十数回におよぶ弁論大会に参加することを目指して、日常は発声訓練や討論、そして大会で発表する原稿づくり、講堂での訓練を続ける。こうした鍛錬精進で、毎年のように各地の大会で優勝・入賞の成果をあげていった。 「弁論大会」と名づくものは、言論の自由という風潮に乗って校内あるいは校外を含めて頻繁に行われた。 特筆されていることは、東海弁論部が主催して対外的な弁論大会を開いたことだ。毎年憲法記念日の五月三日に「椎尾弁匡記念杯全国高等学校弁論大会」が、また中学でも「近県優勝弁論大会」が同じように開催された。これらの大会は東海学園が全国の高校・地域の中学校に発信する文化事業として有名な催し物になり、多くの協力のもと有意義に実施されていった。 寸描するなら、昭和五十二(一九七七)年五月三日の第三十一回椎尾弁匡記念杯全国高等学校弁論大会が催されたときには、この大会を発案したといわれるOBの海部俊樹が当時文部大臣の要職で多忙の中を来校し、講堂一杯の来場者に所信を述べた一幕もあった。 進学実績とともに華開いたクラブ活動-その発展は「躍進東海」とうたうにふさわしく、めざましいものがあった。 「学力の東海」が運動においても屈指の学園になり、「進学の東海」は「スポーツの東海」ともなった。それはまさに「文武両道」だった。そこには、知育・体育・徳育の三つがそろった完全な教育体制が備わっていた。 だが一方、学園の運営面から見ると、別の意味での課題が次々と起こっていった。 このころから高校の規模拡大が行われていったのである。 昭和二十六(一九五一)年には「三年生五クラス、二・一年六クラス」だった。それが年々拡大、昭和三十一(一九五六)年には「全学年九クラス」となった。 学園としてはこれへの対応も緊要のことだった。それは施設・設備の充実にあらわれた。 (敬称略) 題字は堀田岳成名誉教授